パチンカスが泣いた!チキンライスの歌詞!

今日は、泣かせます。

どうも。

パチンカスです。

いつもいつも、パチンコとかパチスロとか、負けた事を書き続けています。

こんな事ばかり書いていたら、心がすさんでキチガイになること間違いありません。

しかし今日は、少しまともな事を書きたいなと思っています。

これを読んで涙腺崩壊する人は、貧乏出身か、パチンカス養分です。

つまり、僕と一緒です。

別に貧乏自慢をしたいわけじゃありません。

これは悲しいことではありません。

あなたにとっても、自分にとっても

 

 

貧乏は誇っていいのです。

 

 

パチンカス管理人、貧乏エピソード

僕は、小さいころから貧乏でした。

貧乏と言っても、様々な貧乏があります。

僕は生まれながらにしての貧乏ではありません。

父は、高度経済成長期を支えた、団塊の世代より少し若い世代でした。

そんな父は一般的な中小企業のサラリーマンでしたが、僕が幼稚園の頃に独立、起業して失敗。

 

 

当時、中小企業のサラリーマン時代に一軒家を購入していました。

勢いのまま、独立。失敗。

つまり、残ったのは借金。

住んでいた一軒家を売り払い、逃げるようにその県を引っ越し、今の地元に僕はやってきました。

(この当時の話を聞いたのは、僕が20歳になった頃くらいでしたね)

 

 

そのころの僕の記憶は、今でも忘れる事はありません。

小学校1年生の頃から、ボロアパート住まいでした。

(ほぼ団地)

ほぼ団地と書いたのは、団地だったら家賃も安いそうですが、簡単に団地には入れないそうです。貧乏に人気なので抽選?だとか。

だから、団地周辺にあるボロアパートでした。

兄と両親、4人家族です。

 

 

 

そして引っ越した矢先、まさかの父が病気で入院…。

糖尿病でした。

母はパートを掛け持ち。

いつも家に帰ってくるのは深夜でした。

よく覚えています。

家には兄と2人でしたが、母からは「ちゃんと勉強して、夜は21時に寝なさい」と教わりました。

 

 

家によくに電話が掛かってきていました。

母は小学生の僕らに、これも教えてもらいました。

「電話に出る練習をしなさい」

と。

そして

「お母さんはいません」

「仕事に行っています」

「帰りは夜遅いです」

と言いなさい!』

母に厳しく言われていました。

今思うとその電話は、消費者金融、信販会社、街金だったんだな…と思います。

もちろん、父は病院です。

母は朝からうどん屋さんのパート、夜はスーパーでパートをしていました。小料理スナックみたいなところにも行っていたそうです。

だから家には、いつも僕と兄の2人だけでした。

 

 

 

夜ご飯はいつも、安い袋ラーメンを兄と半分づつでした。

汁の残りを飲むために、兄とけんかをよくしました。もちろん僕が必ず負けます。

白ご飯は、ありました。

母が忙しいながらも、毎日炊いてくれていました。

おかずは梅干し、漬物、納豆、ごましお、ふりかけでした。

納豆や豆腐などの大豆製品は、畑の肉と教わりました。

卵かけご飯は、贅沢品でした。

そんな貧乏だった僕たちの贅沢が、数か月に1度あったか…。

そう、外食でした。

 

 

 

家計を切り詰めた母が「お留守番ありがとうね」、ということで、ボロ自転車で外食にいきました。

僕は恥ずかしながら、自転車に乗れませんでした。

なので母のボロ自転車の後ろに乗せられていました。

小学1年生とは言え、見られるのが恥ずかしかった記憶があります。

やっと自転車に乗れるようになったのは、実は中学1年生の頃でした…(笑)

 

 

このブログの過去記事にも書いているとは思いますが、外食は基本的に

王将でした。

餃子の王将です。

パチンコの方の王将です。

西日本ですので、餃子の王将は僕が小さい頃からありました。

今でも忘れません。あの味。

注文は、1人1品のみ。

そして餃子1人前を3人で分けていました。

僕は一番安い「ラーメン」を好んで食べていました。

兄は天津飯だったと思います。

ヨダレが出るほどおいしかったですね…。

 

 

3人で1000円以内に…と、母が口癖のように言っていたと思います。

母は焼きそば?みたいなのが好きでしたが、たまにこんな時もありました。

 

好きな焼きそばを我慢して、白ご飯のみ。

 

まあ貧乏だったので、何らおかしなことではないのですが…

白飯を注文して、ラーメンの汁と天津飯の汁をかけて食べていた時もありました…。

その時言った言葉が

「お父さんにも餃子を買っていこう…。」

でした。

たまに1000円を超えていました。

そのころから僕と兄は、母の顔色を伺いながら、あれが欲しいこれが欲しいとか、言ったことありませんでした。

とにかく、我慢。

それが当たり前に育ちました。

そして無事に、大人になりました。

 

 

今の子供たちに理解できるでしょうか?

今じゃ裕福になりすぎて…。

王将では何でも好き放題注文できますよ。

もちろん小さいころから、「絶対早く大人になって働いて、家を助けるぞ!」という気持ちでずっといました。

これがハングリー精神です。

 

 

僕は中学を卒業してすぐ、地元の居酒屋でアルバイトしました。

高校は行きました。

就職に強い県立の工業高校です。

本当は私立の少し頭が良いところも余裕で行ける学力だったのですが、自分の意志で学費が1円でも安いところへいきたかったのです。

以上、僕の貧乏出身の真実でした。

 

 

 

嘘ではありません、これはマジバナです。

このように、僕は貧乏出身だからこそ、パチンカスでもお金が無くとも、今が幸せなのだと思っています。

 

貧乏パチンカス管理人が泣いたチキンライスの歌詞

さて。

ついこの前、ふと耳を済ませたら、槇原敬之さんとダウンタウン浜田雅功さんが歌っている

チキンライス

という歌を耳にしました。

夏なのにクリスマスソング(笑)

 

 

チキンライスは2006年に発表された歌です。

もちろん知っています。

でも、カラオケで歌ったことないですし、まわりに歌っている友人もいませんでした。

ですから、「今日は~クリスマス♪街は賑やか、お祭り騒ぎ~!」

など、リズムや歌詞は何となく知ってはいましたが、マトモに聞いたことはありませんでした。

※TV番組のヘイヘイヘイで、一緒に歌を作ろう!という話になったそうです。

そして大人になった今、チキンライス

改めて、聞きました。

すると、なんだか目頭が熱くなってきたのです。

 

これは、涙か?

 

パチンコで負けすぎたことが原因なのか?

妬(ねた)み・嫉(そね)み・僻(ひが)みのパチンカス養分でキチガイの病気が原因なのか?

よくわかりませんでした。

そこで、もう一度歌詞を見てみる事にしました。

 

※画像です。クリックで画像拡大

チキンライス歌詞

 

いかがでしょうか。

貧乏出身の僕には、物凄く理解できます。

そして、泣けてきます。

だって貧乏だったから。

知っている人がほとんどだと思いますが、実はこれ、槙原さんでもダウンタウン浜田さんでもなく

松本人志

さんが作詞されたそうです。

松ちゃん。

松本人志さんも幼少期は超絶クソ貧乏だったそうです。

僕は知らなかった…。

2006年に発表された歌ですが、当時はまったくこの歌詞に共感できなかったんだと思います。

13年前…

2006年を思い返せば、おそらく高卒で就職した会社で2年目。

僕がパチンカスになる前、無我夢中で仕事を頑張っていた頃だったでしょうか。(東京の良い会社でしたよ)

パチスロでは4号機の末期、いや、もう5号機になっていたかな?

ベニヤ板RUSHで、俺の空とか秘宝伝とかがあった気がします。記憶は定かではありませんが…。

13年後の2019年。

まさかのチキンライスの歌詞で泣くなんて。

相当、パチンカス養分になりすぎて、心が病んでいるのでしょう。

いやいや、僕は病んでいません!(強気)

チキンライスの歌詞を通じて、今の若い子たちに教えていかなければ!!!

チキンライスの歌詞は、ダウンタウン松ちゃんの経験に基づいた内容です。

パチンカス養分の神である僕の経験に基づいて書くなら

 


 

パチンカスラーメン

作詞:パチンカス養分

パチスロって何?って考える
でもそれを
考えようとすることがもう
パチンカスなのかもしれない

子供の頃たまに家族で外食
いつも頼んでいたのは王将のラーメン
エビチリを頼めば
二度とつれてきては
もらえないような気がして
親に気を使っていたあんな気持ち
今の金持ちに理解できるかな?

今日は激熱
ホールはにぎやか お祭り騒ぎ
設定6はやっぱり照れる
俺はまだまだ設定1でいいや


 

2017年にはツイッターで

チキンライス歌

と、なんとも感動。

お金持ち出身、裕福に育った人は、まず泣けないでしょう。

貧乏出身としての、誇りです。

もうパチンコなんてしない。パチスロなんてしない。そう思えます。

でも結局…

もうパチンコなんてしないなんて、言わないよ絶対。

皆さんもご唱和ください。

よし!

今日はガルパン2新台入替初日!

打ちに行ってきます!